「ゲーデルの不完全性定理への12講」#01草稿冒頭

作り置き

この記事では、ゲーデルの不完全性定理への12講の発表草稿冒頭から、不完全性定理が持つ二つの側面、つまり数学の定理としてのそれと数学に関する解釈としてのそれを紹介し、それから両者を関わらせる ヒルベルトのテーゼ を抽出して、最後に不完全性定理の契機となった ヒルベルト計画 を概説する部分を抜粋する。
なお、本記事はあくまでも草稿からの抜粋であり、2022年9月11日の講演時がこのままの内容でなされるわけではない。

目次

定理としての不完全性と解釈された不完全性

つぎのように第一、第二不完全性定理それぞれを理解している人がいるかもしれない。

  1. 数学は矛盾しているか不完全であるか、どちらかである。
  2. 数学の正しさを「確実な方法」で保証することは不可能である。

しかしこれらは、数学の定理ではなく定理の 解釈 にすぎない。

ゲーデル自身の定式化から離れた現代的な言い方で、数学の定理として不完全性定理を紹介しよう。

  1. 数学の形式系は、その表現力が十分豊かならば、完全かつ無矛盾であることはない。
  2. 無矛盾な数学の形式系の表現力が十分豊かならば、その形式系が無矛盾であることを形式系自身は証明できない。

後者二つが「定理としての不完全性」であるのに対して、最初に紹介した「不完全性」をさしあたって 解釈された不完全性 と言おう。

定理としての不完全性で「数学の形式系」と呼んでいるものが解釈された不完全性では単に「数学」と置き換えられていることに留意していただきたい。

それゆえ、定理としての不完全性とわれわれが解釈された不完全性が同じであると結論するには、「数学とは数学の形式系である」という条件が必要になる。

少なくない入門書では、この「数学とは数学の形式系である」という条件を仮定して、定理としての不完全性からわれわれが解釈された不完全性を結論し、そこから数学の限界やさらには人間理性の限界を論じる。

林と八杉はこの同一視を ヒルベルトのテーゼ と呼んでいる(ゲーデル著、林、八杉訳・解説『不完全性定理』)。
テーゼ thesis と言われているくらいでこれは数学に対する意見の主張である。
要するに一種の数学観や数学への立場表明なのである。

実際、プラトニズム数学を展開したことで知られるゲーデルは、定理としての不完全性がこのテーゼが素朴な意味では成り立たないことを示すものであると考えていた(「哲学の見地から見た数学の基礎の近代的発展」)。
つまり、ゲーデルは数学は不完全であるという結論を受け入れずに、背理法によりヒルベルトのテーゼが否定されると考えたのである。

ゲーデル自身の例が示すように、どのような態度をヒルベルトのテーゼに対してとるかということは、数学、ひいては科学や合理性に対する立場の取り方と密接である。
そして、そうした態度・立場を明確にしないかぎり、定理としての不完全性から解釈を導くことはできない。

こうした態度・立場のグラデーションゆえに、多くの不完全性の解釈が存在する。
それゆえに、数学の定理であるにもかかわらず第一、第二不完全性定理が、多くの解釈を持つのである。

踏み込んだことを言うと、ヒルベルトのテーゼのような「形式系への立場表明」をしないまま不完全性を解釈しようとしたりどのような立場からの解釈であるかを鑑みないで解釈を論じようとしたりするから、誤解や混乱が生じるのである。

数学の形式系と数学の関係への立場というロバストでないものが不完全性に関する解釈に要求される。
この前提を理解することで、混乱や誤解の(全てではないが)多くを解消できて、しかも自身の立場をはっきりさせることで不完全性の解釈が容易になる。
さらに、数学とは何かというような問いから峻別して数学的内容に集中することで、定理としての不完全性も理解しやすくなるだろう。

今回の連続講義で、歴史的だったり哲学的だったりする、数学とは何かという話は初回の2022年09月11日でしか扱わない。
そうした話から離れて不完全性の数学的内容をまず理解していただき、その上でご自身でご自身の数学観に基づいて不完全性を解釈していただけたらと思う。

しかしながら、なぜ上述のような仕組みが存在するのかという説明になるだろうという考えから、今日だけは少し不完全性定理前史のお話をしよう。

なお、今回の歴史に関する話の大半は、
ゲーデル著、林、八杉訳・解説『不完全性定理』、岩波文庫に大きく依っている。

ヒルベルトのテーゼとヒルベルト計画

ヒルベルトのテーゼ

われわれが解釈された不完全性とよんだものを定理としての不完全性から導くのに数学内の議論だけでは不足するのは、先に述べた通りである。

その数学に関する立場としてヒルベルトのテーゼがあった。
そしてそれは先の二つが同一であるという場合にはその根拠になる。

ヒルベルトのテーゼ :
現実の「数学の議論」は、
数理論理学の概念である形式系により、
忠実に再現される。
したがって、
数学の理論について語るには、形式系について語れば十分である。

つまり、ここで主張されているのは、「形式系」という言葉で「数学の理論」という言葉を置き換えていいということである。

林と八杉は、「現代的な意味での形式系を最初に定義し、上記の命題を明瞭な形で主張したヒルベルトにちなんで」これを ヒルベルトのテーゼと呼んでいる。

ヒルベルト計画

先に述べると、ヒルベルト計画とは次の三段階を実施・実現するプロジェクトである。

  1. ヒルベルトのテーゼの基礎づけ
  2. 無矛盾性の証明
  3. 完全性の証明

ヒルベルト計画の概略

ヒルベルトのテーゼの基礎づけ

これは日々、現実に行われる数学を形式系という機械仕掛けの模型に落とし込むことである。これに成功すると、数学の実際は忘れて、この模型自体を数学の本体とみなせる、というわけである。

無矛盾性の証明

形式系が無矛盾であること、つまりそれ自身とその否定が同時にその体系内で証明されるような命題が存在しないことを示す。これを通して、数学は自己矛盾がないという意味で 安全 になる。

証明論的完全性の証明

ここで「証明論的」と書いたのはヒルベルトでなく私をはじめとする後世の数学者・哲学者たちである。
形式系の「証明論的」完全性とは、「任意の命題についてそれ自身かその否定のどちらかがその形式系で証明できる」ということである。これを示すことができると、数学の問題はいつでも解決できることが従い、数学はある意味で「完全」だと示される。

ヒルベルト計画の結末

以上の通りにヒルベルト計画が進めば、数学は「安全」で「完全無欠」であると確立されるはずであった。
しかしながら、第二不完全性定理によれば、両方の無矛盾性の証明も不可能となる。

ゲーデルは第二、第三段階が不可能であることを発見し、「数学の基礎づけ」という近代ヨーロッパ的な試みの失敗を証明したのである。

結語

数学を「意味抜き」で考えて、ある意味で機械化・自動化可能であることを示そうとするこの試みの中でもヒルベルト計画に至る歴史とヒルベルト計画の顛末も2022年9月11日の講義では扱う。

繰り返すが、これは不完全性定理の数学的な理解を目指して、解釈から定理を峻別するために行う説明であることに注意してほしい。

それでは歴史は19世紀初頭に遡り、われわれは数学の厳密化について語ることになる。

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